帰り道アドベンチャー

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 広い事務室に終業を告げるメロディーが流れた。

 一瞬、全員の手が止まり、時計に目をやり、また動きだした。

 しかし中に数人、大きな伸びをしている者がいた。

 そしてその中にまた数人、大きな欠伸をしている者がいた。

 目黒竜也はその中の一人であった。

 「んじゃ、おさきに」

 「あれっ?目黒課長、またまたお早いお帰りで」

 「わるいな、後はよろしく頼むよ原君」

 「へーい、おまかせを。うちの課は課長なしでもやってけますから」

 「・・・・・」

 鞄を両手に抱え、逃げるようにして帰る後ろ姿が、ドアを閉めるのを確認してから原が口を開いた。

 「やってらんないよな、ほんと。仕事中はぼうっとしててなにもしないし、この忙しいのにさっさと帰っちゃうしよ。なんであんなのが課長やってるわけ?うちの会社人事間違ってるよな」

 原の言う事ももっともで、今の目黒は左遷か退職までささやかれている。

 ささやいているのが下の連中だったらよいのだが、悪い事に上級管理職がささやいているのだ。

 川は上流から下流に流れ、下流に行くほど大きくなる。

 上の噂は下ではほぼ決定という事になっており、それ故扱いもぞんざいになる。

 要するに、事務所内で大きな声で悪口を言っても、黄昏をかばう人間は皆無なのである。

 目黒の通う会社は、情報処理産業としては決して小さくない。全社で五〇〇人以上は働いている上場会社なのである。
 二九歳の目黒は、その新橋本社のシステム課の課長なのだ。

 もともと仕事のできない人間であれば、若くしてそのような会社の課長になど成れるはずもない。

  目黒は中流家庭に育ち、小中高、大学と成績は常に上位。身長一七七センチ体重七〇キロと身体付きにも恵まれていたので、大学時代はあらゆるスポーツを得意とし ていた。
 この会社に入ってからも常に成績は優秀でエリートコースに乗っていた。
 主任、係長と1年ごとに昇格し、二七歳の時、課長代理をとばして一気に課長になった。と、ここまでは良かったのだが、その一年後、目黒にとっては全く災難としか言いようのない出来事が待ち構えていた。

 社のプロジェクトの打ち上げで、部下と飲みに行った帰りであった。

 目黒がホームで電車を待っていると、偶然にも大学時代の友人の麻生とばったり出会った。
 親友というわけではなかったが、お互い久しぶりと言う事で新橋で飲む事になった。
 二人は「ポポレ」というパブに入った。目黒の行きつけの店である。

 店に入ると、早速お互いの身上調査に近況報告が始まった。
 目黒は自慢する事が多かったが、麻生は悲惨であった。

 大学を卒業後就職には失敗し、やっとコネで入った会社が二年後に倒産。
 しかたなしに自営業の父親の手伝いをしていたが、これも傾いてしまって借金を抱えたまま 家族で夜逃げ。後日何とか工面して借金は返したものの、財産は全てなくなり路頭に迷った。
 今は何とか立ち直り飲み歩けるようにまではなったが、決して裕福なわけではないということだった。

 女の事に関しても、ちんちくりんで小太りの麻生は未だに彼女も作れずにいた。

 話が湿っぽくなってしまったので、大学時代を思い出してナンパでもするかということになり、じゃんけんで目黒が負けた。
 隣のテーブルで飲んでいたOLに声をかけると意外にあっさりOKが出た。
 目黒と麻生はコップを持って隣に移った。
 暫く話をしていると、その四人のOL達は、目黒の彼女の会社の同僚だということがわかった。
 酔っているせいもあったが、次には目黒の彼女も交えて七人で飲もうということになり、一週間後にポポレで実現した。

 目黒の彼女は美形であった。名前は堀内敏子。目黒とは三年間のつきあいである。人も羨むようなカップルであった。

 しかし四人のOL達はそれとは知りながらも目黒に色目を遣い、哀れ麻生は無視されていた。
 たったひとり、敏子だけが麻生に気を遣い、煙草に火をつけてやったり 水割りを作ってやったりしていた。 

 それから一月後のことである。

 敏子と約束していたデートをすっぽかされた目黒は、くさくさした気を紛らわすために一人で映画を観に行った。
 そして帰りがけの電車のホームでとんでもないものを見てしまったのである。

 敏子がいたのである。それもちんちくりんで小太りの不細工麻生と腕を組んで。
 そのとき目黒は隠れるようにして二人をやり過ごし、家へ帰った。
 ショックで声もかけられなかったのだ。

 その夜、目黒は敏子に電話をした。心は怒りに燃えていたが、反面どのような言い訳を聞けるのか、楽しみでもあった。

 しかし敏子からの言い訳は、なかった。

  ・・・3年間ありがとう。楽しかったわ。ほんとは先週逢ったとき話そうと思っていたんだけど、ごめんなさい。

 そんな、ばかな。

 その日、目黒は泣いた。朝方まで泣いた。

 何が何だか判らなかった。

 先週までは毎週逢っていたのだ。それに、あれから一月ちょっとしか経っていないのだ。こっちは三年間もつきあってきているのだ。

  目黒は全てにおいて自分は人より優っているのだと思っていた。
 ましてや麻生の
ようなタイプの人間とは別格だと考えていた。
 だからどんなことでも麻生のような人間に負けるというのは、自分が否定してきた全てのものに劣るということになる。

 目黒はその後何度も何度も敏子に連絡をとった。もちろん麻生にもとった。しかし二人の答は、いつも謝罪のみであった。
 それも幸せそうな声で。

 目黒は日毎に自信を失っていった。そして一年後、彼は自他ともに認める無気力人間となってしまったのである。

 春は近いがまだ寒い。

 社屋から出た目黒は、コートの衿を立て直し、肩をすぼめてうつむき加減に歩き始めた。

 こんなに早く帰っても、やることなどない。家でこたつでテレビで酒だ。
 かといって会社に居ても、やはりすることはないし、邪魔にされるのが落ちである。
 飲みに行く勇気などは、とっくの昔になくなっている。また何が起こるか分かったものではないからだ。

 目黒は重い足を引きずりながら、いつもの道を駅へ歩いていた。 

  会社から新橋駅までは徒歩約5分、そこを10分かけて歩き電車に乗ると目黒の自宅までは約1時間というところである。

 やっと新橋駅が見えて来た。

 駅の側にビルが建つらしく、森の絵の描いた鉄板の塀の中で、大きなクレーンが回っていた。

 目黒は「ここらへんもまだビルが建てられる敷地があったのか」と感心しながら鞄を左手に持ち換えた。

  持ち換えた鞄は、勢い余って後ろを歩く人の股間にあたった。

  目黒の左手に、ぐにゅっ、という感触が残った。

 「くっ」

 「あっ、すみません。大丈夫ですか?」

 「てめー、わざとやりやがったなあ?」

 パンチパーマに茶の皮ジャン、赤いオープンシャツに黒のスラックス姿。眉の下は剃ってあり、垂れ眉毛を無理矢理吊り上げている。

 どこからみてもチンピラである。

 「どうしてくれるんだよお、おい」

 チンピラは、目黒を森の絵の鉄壁に、襟首を持って押しつけた。

 目黒は背が高い。しかしそのチンピラは目黒よりもまだ高かった。

 「わざとやったんじゃありません。ごめんなさい。許して下さい」

 人通りは激しいのだが、誰も足を止めようとはしない。

 「ごめんなさいですみゃあ、お巡りさんはいらねえんだよ。おう、おとしまえ、つけろや」

 一年前の目黒なら、ふざけるな、といくところだが今はまるっきりだめで、

 「もっ、もうしわけありません。なんでもいたします」

 と土下座をしてしまった。

 祈るような気持ちで顔を上げてみると、工事現場のクレーンが回って、鉄骨がチンピラの頭上にさしかかっていた。

 その瞬間、クレーンと鉄骨を結ぶロープが音を立てて切れた。

 あわやチンピラは鉄骨の下敷きに。

 目黒は反射的にチンピラを突き飛ばした。

 学生時代に鍛えたぶちかましは、チンピラを三メートルも後方へすっ飛ばした。
 目黒は上を見た。

 鉄骨は、ゆっくりと大きな弧を描いていた。

 クレーンと鉄骨をつなぐロープは、二本あったのだ。

 チンピラが頭を振りながら立ち上がった。

 「このやろう。不意打ち喰わせやがって。瑞穂興業の朝倉が素人になめられたとあっちゃあ面目が立たねえ。死んで貰うぜ」

 朝倉は腰のベルトに挟んであった九寸五分を両手に持ち、ゆっくりと白鞘を抜いた。

 そんな、ばかな。

 目黒は泣きべそをかいてつっ立っていた。

 「あっ!」 

 「危ない!」

  さすがに素通りできなくなった人々の輪の中から、いくつかの叫び声が聞こえた。

  朝倉は目を血走らせていてそんなものは聞こえない。

 目黒は群衆の視線を一瞬追って、青ざめた。

 不規則に揺れていた鉄骨が、向かいのビルの壁に当たったのだ。

 最近のビルの壁は、地震には強いが鉄骨の直撃には弱いらしい。

  一メートル四方ほどのパネルが割れて、大きなメンコとなって朝倉の頭上に降ってきた。

  目黒も今度は助けない。

 「当たれ!」

 「死ね!」

 二人の声が交錯した。

 大音響とともにパネルがアスファルトに四散した。

 同時に工事現場の鉄壁が大きく揺れた。

 目黒は朝倉と鉄壁に挟まれていた。

 朝倉は目黒に体当たりしたため、パネルの難を逃れたのだ。

 暫く沈黙があった。

 先に気がついたのは目黒であった。

 目黒は朝倉を突き飛ばした。

 腹を触った。

 血は出ていない。

 しかし背広が脇から下まで切り裂かれていた。

 ヒ首(あいくち)を腰溜めにしたままの姿勢でひっくり返っていた朝倉が起きあがった。

  「いっ、今のは驚いて失敗した。今度こそ殺ってやるからそこにじっとしてろ」
 「じょうだんじゃないよ」

 目黒は逃げた。

 朝倉は物騒な構えのまま追ってくる。

 駅の方から警察官が二人走ってきた。

  目黒は助かったとばかり、大声で叫んだ。

 「お巡りさあん!」

 「分かってる」

 警察官は目黒を通り越し、工事現場の方へ走り去った。

 そんな、ばかな。

 朝倉は懐に隠していたヒ首をもう一度構え直し、にやっと笑った。

 道行く人々はなんだなんだと工事現場へ向かっている。

 目黒は人をかき分け足をもつれさせながらも必死で逃げた。

 昭和通りに出た。

 手近なビルに飛び込み、階段を駆け上がった。

 三階まで行くと上りのエレベーターが止まっていたので、それに乗り込んだ。

 八階に着いた。

 屋上まで階段を駆け上がった。

  屋上のドアを締め大きく息をついた。

 目黒はハンカチで汗を拭った。

 風が頬や首に心地よかった。

 「何で俺がこんな目に遭わなきゃならないんだよ」

 目黒は振るえる手でくしゃくしゃの煙草を取り出した。

  一息大きく煙を吐き出すと、やっと気持ちが落ち着いてきた。

 と、突然、

 「来ないで!」

 目黒の右横から声がした。

 「来たら飛ぶわよ」

 「えっ?」

 昭和通りに面した屋上の端に女が一人立っていた。

 50センチほどコンクリートが立ち上がっているだけで、金網も何もない屋上である。

 女は裸足で、靴は女の横に揃えられている。

 靴の上には封筒が乗っていた。

 誰が見ても自殺である。

  「それ以上近づいたら、ほんとに飛び降りるから」

  女はプールに飛び込むような仕草をしてみせた。

 「ちょっと待ちなさい。君、自殺はいけないよ。まずいよ」

 「何がまずいのよ。世の中生きてたっていい事なんかないのよ。ほっといてよ」

 「やっぱりまずいよ。じゃなくて、ほっとけないよ。良かったら話してみなよ、何があったか。力になれるかも知れないし」

 「ほっといてよ、どおせ男なんかには分からないのよ。何年も付き合ってて、こっちが本気で考え始めたら、他にいい人ができたからさよならだなんて。勝手すぎるわよ。それに会社のみんなもみんなよ。人が真剣に悩んでるのに、仕事しない人は邪魔だから出ていけだとか何だとかって。生きててもしかたないのよ、こんな世の中」

  「分かるよその気持ち。僕もそうなんだ。三年も付き合った彼女に振られちゃって、自忘自棄になっちゃって、今じゃあ何をやっても上手くいかないし、やる気も起こらない」

 「じゃあ何で生きてんのよ」

 「何でって、自殺なんて考えた事もなかったからだよ。だし、生きてりゃ何とかなるだろうし」

 「あんたはうそつきよ。ただ生きてたって何ともなるわけないじゃないの」

 「だから、自分から何とかするようにすればいいんじゃないか。自分から」

 「自分からって言ったって・・・」

 目黒は話しながら少しづつ女に近づいて行った。

 今は手を伸ばせば届くところにいる。

 目黒はタイミングを計っていた。

 ぐっと手を伸ばし、女の腕を掴もうとしたその瞬間、背後のドアがバアンと開いた。

 「探したぜ」

 朝倉であった。

 そんな、ばかな。

 目黒は何故か女をかばうような形で朝倉に対した。

 朝倉は懐からヒ首を出し、上目遣いに刃先をぺろりとなめた。

 「なによこの人」

 「さっきから僕を殺そうとしてる人なんだ」

 「冗談じゃないわよ。へんなことに巻き込まないで」

 女は靴を履いて遺書をポケットにしまった。

 自殺を考えていた割には、靴は履き安い方向に揃えられていた。

 女は飛び降り自殺をした後、また帰ってくるつもりだったらしい。

  朝倉が口を開いた。真っ赤である。

 「おともらちかい?じゃあ一緒にしんれもらおうかい」

 先ほど刃先をなめた時に舌先を切ったようだ。

 朝倉のつま先がコンクリートの床を蹴った。

 目黒は女を横に突き放し、朝倉をかわした。

 朝倉は目黒の左脇をすり抜け、勢い余って空中へ飛び出した。

 八階建てのビルの屋上である。落ちたらお陀仏だ。

 飛び出す直前、朝倉は目黒の脇から垂れている背広の切れ端を握った。

 目黒は朝倉に引っ張られ、つんのめって空中へ。

 目黒の右手は、間一髪、屋上端のコンクリートの立ち上がりを捉えていた。

 女が駆け寄った。

 強い風が女の髪を舞上げる。

 目黒はコンクリートの柵に両手でぶらさがっている。

 朝倉は目黒のズボンのベルトを掴んでいる。

  女は二人をのぞき込んだ。

 「どうすればいいの」

 「引っ張り上げてくれ」

 「無理よ」

 「人を呼んで来てくれ」

 「人がきたら自殺できないわよ」

 「わけのわからんことを言ってないで、さっさと誰か呼んでこい!」

 女は頷き走り去った。

 目黒の指はじりじりと死の淵へ下がっていった。

 下でぶらさがっている朝倉が喚いた。

 「てめー、がんばれよ。手え離したら殺すぞ」

 「手を離したら二人とも死んじまうよ」

 数分が経ち目黒の握力の限界が来たときであった。

 

 ズドドーン!

 

 突然、大音響とともに、朝倉のつま先のあたりの窓のガラスが吹っ飛んだ。

 何かの大爆発である。

 当然二人とも宙に舞った。

  二人は目黒の指先を中心に回転しながら飛ばされた。

 二回転目で朝倉の両足が八階の窓に引っ掛かった。

  二人の立場が逆転した。

 目黒が叫んだ。

 「うまいぞ。そのままゆっくり引き上げてくれ」

 「ばーか。あばよ」

 朝倉は掴んでいたベルトから手を離した。

 目黒は八階から文字どおり真逆さまである。

 朝倉は腹筋運動の要領で起き上がり、八階の部屋に入った。

 この部屋は、××薬品技術開発グループの研究室である。

 爆発したのは火薬の類ではなく、引火性の強い気体だったようで火は出ていない。

 そのかわりにスプリンクラーが雨を降らせていた。

 スプリンクラーの雨を避けるかのように白衣の研究員が数人壁に張り付いていた。

 非常ベルがけたたましく鳴っている。

 朝倉は窓枠に腰をおろし、一同を見回しながらおもむろに言った。

 「おう、てめーら。爆発してんじゃねーよ」

 朝倉はポケットから煙草とライターを取り出した。

 研究員達が揃って首を横に振った。

 先ほどの爆発で全員パンチパーマになっている。

 「なんだよ、ここは禁煙だっつうのかよ」

 もちろん研究室は禁煙である。しかしただの禁煙ではない。

 ドドーン!

 朝倉がライターを点けた瞬間、二度目の爆発があった。

 気体の発生元は、未だ活動を続けていたのであった。

 朝倉はまたも窓外へ吹っ飛んだ。

 外は八階だ。

 目黒は朝倉に離された瞬間、死を意識した。 

  死ぬ直前、人は自分の一生をビデオの早送りのように振り返るという。

  目黒は小学校に入学するあたりで現実に戻った。

 助かったのである。

 八階の爆発があった瞬間、ビルの集中管理室のコンピューターが働き、防災設備が一斉に稼動した。

 最新型の防災設備は各フロアーの排煙窓を瞬時に開け放した。

  横一メートル縦五〇センチ、下の蝶番を中心に外側に約六〇度開く排煙窓は、恰好の滑り台となって、ビルの壁沿いを落ちる者を内側に招いたのである。

  七階のフロアーに転げ落ちた目黒は、震える足を叱咤しながらようやく立ち上がった。

  事務所のようだが誰もいない。

 目黒はよろめきながら出口に向かった。

  扉のノブに手を掛けた瞬間、上で爆発音がした。

 嫌な予感がして窓の方を振り返ると、朝倉が降ってきた。

 目黒と同じような格好で転げ落ちた朝倉は、すっくと立ち上がり、にやっと笑った。

 「お互い助かったようだな」

  「そんな、ばかな」

 目黒は焦ってドアを引いた。

 開かない。

 朝倉はゆっくりと目黒に近づいてくる。

 目黒は渾身の力を込めてドアを引いた。

 ノブがきしむ。

 めりめりと音がする。

 しかし無情にもドアはびくともしない。

 目黒は叫んだ。

 「ちくしょー、誰か開けてくれー」

 目黒はドアを押した。

 簡単に開いた。

 廊下に飛び出した目黒は後ろも見ずに走った。

 朝倉の足音が追いかけてくる。

 目黒は階段を転がるように駆け降り、昭和通りに出た。

  ビルの前は黒山の人だかりである。

 遠くに消防車のサイレンが聞こえる。

 警察官が人混みをかき分けながらやってきた。今日は大忙しだ。

  目黒は叫んだ。

 「お巡りさん、あの・・・」

 「分かってる」

 警察官は目黒を通り越しビルの中に入っていった。

 警察官と入れ替わりに朝倉が出てきた。

 目黒は人混みをかき分けながら逃げた。

 人だかりから抜け出すと横手から声が掛かった。

 「凄かったわね、さっきの」

 自殺女である。

 「ばかやろう、人を呼んで来てくれって言ったじゃないか」

  「なによその言い方。こんなに呼んできたじゃないの」

 「あっ・・・。ばかやろう、野次馬呼んでどうすんだよ」

 「それより、いいの?逃げなくて。来たわよ、後ろ」

 朝倉が迫っていた。

 「てめえら、二人ともそこを動くなよ」

 「あっ、あたしは関係ないじゃないのよ」

 目黒は女の手をとった。

 「逃げるぞ」

 「どうするんですか、お客さん」

 「ああ、とりあえずこのまま走ってて下さい」

 目黒は女を引っ張って逃げる途中、ちょうど客を降ろしたタクシーに飛び乗ったのだ。

 「君の家まで送るよ」

 「ほっといてよ」

 「そうはいかないよ。どこだい家は」

 「帰らないわよ。帰れないのよ」

 「家も自殺の理由の一つなのかい」

 「そうよ」

 「君にとっては、何もかも自殺の理由になっちまうんじゃないのか」 

  「・・・・・」

 「自殺なんかで逃げるより、自分を信じて立ち向かっていくのが人間なんじゃないのかよ」

 「なに偉そうなこと言ってんのよ。あんたなんかに分かってたまりますか」

 「典型的なへそ曲がりだな。とにかくほっとく訳にはいかないよ。運転手さん、柴又の方へやって下さい」

 葛飾区の目黒のマンションの前に着いたときには、既に七時を回っていた。

 いつもの帰宅より一時間遅れだ。

 目黒としては、女とこのまま別れて自殺でもされたら目覚めが悪いと思い、とりあえず連れては来たものの、この後どうするかについては全く考えていなかった。  相変わらず仏頂面の女をタクシーから引っ張り出し、近くの喫茶店にでも行こうと思っていると後ろから声が掛かった。

 「待ってたぜ」

 朝倉である。

 そんな、ばかな。

 朝倉は右手に持っていた鞄を目黒に差し出した。

 「あのビルの七階におっこってたんだよ。中の手帳に住所と名前が書いてあってよ、この時間じゃあ車より電車の方が早いよなあ、目黒さんよ」

 目黒は女を自分の後ろに回し腰のベルトからヒ首を抜き出した。

 「あのビルの七階に、一番最初に落ちたのがこいつだったんだよ。拾っておいて良かったよ」

 抜き身のままのヒ首の刃が街灯に輝いた。

 緊張の時間が流れた。

 「どうした朝倉、俺はもう逃げないぞ」

 「へっ、ばーか。てめーを殺る気なんざとっくのとうになくなってるよ」

 「じゃあなぜ追ってきた」

 「あの七階で助かったとき、妙な気分になっちまってよ。こりゃあ絶対死んだなって思ったら助かっちまってよ。そんでよ、見たらおめえも助かってるじゃねえか。なんかうれしくなっちまってなあ。急におめえが仲間みたいに見えてきちまったんだよ。そしたらよ、おめえは逃げちまうし鞄はおっこってるし。でよ、これ届けてやろうと思って来たってわけよ」

 「ほっ、ほんとだな」

 「嘘言ってどうするんだよ」

 「わかった。ありがとう。じゃあ、これ返すよ」

 目黒と朝倉はヒ首と鞄を交換した。

 朝倉はヒ首を懐にしまい、右手を差し出した。

 「いろいろあったけどよ、わるかったな。ちょっと飲みに行くか?」

 目黒は朝倉の手を握り返した。

 「やめとくよ。また今度な」

 「そうか。んじゃま、今日はけえるか。なんかあったら、瑞穂興業に来な。名刺わたしとくからよ。じゃあな」

 「ああ」

 目黒は不思議な気分で朝倉の後ろ姿を見送った。

 女が目黒の背中をつっついた。

 「かっこいいじゃない。これからどおすんの?」

 「俺の家に泊まるか?」

 「うん」

 「よく見るとかわいい顔してるじゃないか」

 「あんたもね」

 「でも性格が良くなさそうだな」

 「あんたもよ」

 「俺は変わったよ。今日。ずいぶん変わったよ」

 「あたしもよ」

 目黒は肘を突き出した。女はそっと腕を組んだ。

 「名前、まだ聞いてなかったな」

 「京子」

 二人の姿はマンションの明かりの中に吸い込まれた。

                                                                  おしまい
1992年3月7日