空飛ぶOL                   短編私小説へ戻る
 男やもめにうじがわく。女やもめに花が咲く。

 とはいえ、女も二九歳で独身ともなれば、いささかとうも立ってこようというものだ。

  「園田さん、丸丸物産への礼状、こんなもんでいいですか?」

 「ん?なによこれ。これじゃあ礼状じゃなくて単なる挨拶状じゃないの。だいたい拝啓ときたら敬具って締めるのが常識よ。美幸ちゃん。わからないのなら本を見なさい、本を。丸写ししたってこれよりもましだから」

 園田花江。二九歳。独身。     

  丸の内にある某大手商社のOLである。

 「松田君、ばかやってないで報告書早くちょうだいね。今日中にまとめなくちゃならないんだから」

  やりてばばあ。影の部長。いろいろいわれているが、言いたいやつには言わせておけと思っている。

 「ああ、いけない。今日は定時退社の日じゃない。もうみんな何してんのよ。結局わたしが尻拭いすることになっちゃうのよね。いつも」

 世界中の苦労は、全てわたしが背負っている。そういうタイプの人間である。

 普通は人事異動等で勤務が入れ代るので、ひとつの部署、ひとつの場所に長くいるということは希であるが、女性の場合結構そういったことが多い。

 花江もそうで、ひとつの部署で勤続10年ともなれば向かうところ敵なしだ。

 課長ですら、大事なことは花江にお伺いをたてる。

 花江は山のような書類を鞄に詰め込み、バックアップをとったフロッピーディスクをスーツのポケットにねじ込んで帰路についた。

 今日は特に忙しかったので、化粧は一度も直していない。

 口紅を引き直す時間くらいはあったのだろうが、頭は仕事でいっぱいである。

  信号待ちですらいらいらしながらマンションに帰り、シャワーも浴びずに机に向かった。

 どさりと書類をひっぱり出し、パソコンのスイッチを入れる。

  モニターの画面が、化粧のとれた額に映った。

 「八時からエアロビクスに行かなけりゃならないのに、なんであたしだけがこんなことしなくちゃいけないのよ、もう」

 ぶつくさ言いながらキイボードを叩いた。

 会社での勢いをそのまま持ってきたので、見る見るうちに仕事が仕上がっていく。

 口先ばかりでなく、実際に仕事が出来るから陰口が多くなるのである。

  ラストスパート。

 機関銃のように指先が走る。

 ピイン、ポオン。

 「ああもお、だれかしら」

 ピポ、ピインポオン。 

 花江は時計に目をやりながら、インターホンの受話器をとった。

  「はあい」

 「あたしだよ」

 「なあんだ、咲子か」

 「なあんだはないでしょ。入れとくれよ」

 花江の親友の桜咲子だった。

 「迎えに来たよ」

 「まだ早いよ。まだ仕事終わってないし。お茶でも飲んで待っててよ。自分で入れてよ、お茶」

 咲子は既婚者だ。

 高校時代からのつきあいである。

 咲子の家は花江のマンションから車で10分。

  エアロビクスのある日は必ず迎えにくる。

  「買い代えたのよ、くるま。それで、見せびらかそうと思って早くきたのだよ」 

 「またあ?おかねもちねえ。古本屋ってそんなに儲かるの?」

 咲子の旦那は古本屋を営んでいる。

 「中古のファミコンソフト始めたら、これがおおうけでさ。そんなこといいから早く終わらしちゃいなさいよ、仕事」

 花江は仕事をダッシュで片付け、バッグにレオタードを詰め込んだ。

 新車は快適であった。

 エアコンはつけずに窓を開けた。

  「ねえ、花江」

 「ん?」

 「かれは?」

 「別れたって言ったじゃない」

 「じゃあ本当にあれっきりになっちゃったの?」

 「そうよ。もう半年」

 「ばかねえ。あたし絶対結婚すると思ってたのに」

 「あたしもよ」

 「ラストチャンスじゃない」

 「わかってるわよ」

 「どうするのよ」

 「どうするって?」

 「結婚よ」

 「知らないわよ」

 「キャリアウーマンもいいけど、やっぱり最後には落ち着くところに落ち着かなくっちゃ」

 着いた。

 咲子は旦那のためのエアロビクス。

 花江は健康のためのエアロビクスである。

 一汗かいた二人は咲子の家へ行った。

 旦那が町内会の旅行でいないので、咲子の家で食事をすることにしたのだ。

  家で食事といっても店屋物である。

 寿司が届くまでにシャワーを浴びた。

 花江は普段から薄化粧なので、化粧がとれてもどうということもないのだが、咲子は厚化粧なので、風呂上りは誰だかわからなくなる。

 二人とも片手にビール、片手にバスタオルだ。

 「ねえ、花江。あんただってもうちょっと気合入れて化粧すれば、結構いい女なんだから頑張ったほうがいいわよ」

 「いいのよ、もう。来年30だし」

 「だからするのよ」

 「もうあきらめた。結婚。なんか面倒くさくなっちゃってさあ」

 「あきらめちゃだめよ。あんたの会社って男がいっぱいいるんでしょ?いないの?一人くらい物好きなやつが」

 「物好きとはなによ。あたしだってこう見えても、何回も言い寄られたことがあるんですからね。今だって・・・」

 「今だってなによ」

 「いいじゃないよ、なんだって」

 「よかないわよ。そうだ、お見合いなんかどうなのよ、お見合い」

 「実は、行ったのよ、このあいだ」

 「行ったって?」

 「お見合いよ。部長の紹介でさ。丁度君にお似合いのがいるからって」

 「で、どうだったの?」

 「三二歳だっていうんだけど、どうみても四〇過ぎね、あれ」

 「老け顔なんだ」

 「おなかも出てるのよ、おもいっきり」

 「失礼しちゃうわねえ」

 「失礼しちゃうでしょお」

 「で、どおしたの?」

 「断ろうと思ったら、先に断られちゃった」

  「・・・・・」

  「さあ、今日は食って飲むぞ。全部咲子のおごりだからね」

 「いいわよ。恵まれないおばさんに愛の手をだからね」

 「結婚していない女は、おばさんにはならないのだ」

  「とっくになってるわよ」

 「そうそう、ねえ咲子、また本貸してくれない?」

 「うちは古本屋よ。たまには買ってよ」

 「けちけちしない。恵まれないおばさんに愛の手をでしょ」

 「調子いいんだから。どれでもいいから持ってけば」

 「サンキュー」

 花江は座敷の引き戸を開け、店に降りた。

 暗い店内でビールを片手に古本を物色していると電気がついた。

 「花江、あんた泣いてるの?」

 「ちがわよ、ほこりよ、ほこり。ちゃんとはたきかけてるの?この店」

 「まあいいわ。見つかった?おもしろそうな本」

 「まだ」

 「でも変わってるわよね、花江って」

 「なにが?」

 「ばりばりのキャリアウーマンのくせして、持ってく本といえば、メルヘンだのお伽話だのって」

 「好きなのよ、ああいうの」

 花江は店内を一周して、咲子のいる引き戸の前へ戻ってきた。

 引き戸の上にも棚がある。

 花江の目はその棚の一点に止まった。

 「ねえ咲子、あれ、なあに」

 「ん?」

 促されて咲子も店に降りた。

 咲子は、今まで自分の頭上にあった棚に並んでいる本のうちから、花江の視線の当たっている本を見た。

  背表紙が見えているが、そこにはタイトルが書いていない。

 咲子はキャスターの付いている踏み台を持ってきて棚からその本を降ろした。

 縦三〇センチ横二〇センチ、くたびれた皮表紙の分厚い本である。

 「こんな本あったかしら」

 咲子は首を傾げながら表紙を開いた。

 花江は隣から首を伸ばして覗きこんでいる。

 その本の一枚目は白紙であった。

 次の頁から文字が書かれていたがその裏は白紙。またその次も文字の裏は白紙というように、どうやらこの本はタイプで打った物を、皮の表紙に、にかわかなにかで貼り付けた手作りの本のようであった。

 英語で書かれていた。

 「ねえ、咲子。この本借りていいかしら」

 花江は咲子の手からそっと本を受け取った。

 「いいけども、うちにこんな本置いてなかったと思うんだけど。確か、今朝整理したときもなかったと思うんだけど」

 「いいじゃないどうでも。きっと旦那さんが置いたのよ」

 「へんねえ。そうかしらねえ」

  「気にしない気にしない。じゃあこれ借りるということで、飲みなおそ」

 花江がタクシーで自宅に着いたのは、夜中の2時を回ってからであった。

 花江は、今日も定時で帰宅した。

  定時退社の日ではないが帰ってからすることがあった。

 昨日の酒は午前中残っていたが、昼休みのお喋りですっかり抜けた。

 健康のためにやっているエアロビクスも、その後、夜中まで酒を飲んでいたら何のためだか分からなくなる。

 しかし、花江は身体と精神の両方のためになっていると満足している。

 家に帰るとシャワーを浴び、ピンクのバスローブのままコンピューターの前に座った。

 左手にワイン、右手で電源を入れる。

 ハードディスクが立ち上がるまで、ワインをひとくち含み、足を組み直す。

 パソコンのデスクトップから英和翻訳アプリケーションを選択した。

 作業開始である。

 花江は一日中わくわくしていた。

 仕事中も、あの本のことが気になって仕方がなかった。

  昨日の夜、咲子の家から帰ってすぐにぱらぱらと借りた本をめくってみた。

  花江は英語は得意ではないが、仕事柄ある程度はできる。

 ざっと見てみると、どうやらこの本はハウトゥ本のようなのだ。

 少しがっかりしながら題名を数頁追ってみると、ただのハウトゥ本ではないようであった。

 <家を食べる方法>

 <月を1インチ動かす方法>

 <熱い氷を作る方法>

 <夢を保存する方法>

 などなど・・・・・。

 花江にとっては、どれもこれも楽しそうな題名ばかりだ。

 昨日は夜遅かったので手はつけなかったが、早く読んでみたくてうずうずしていたのだ。

 翻訳開始。

 始めのページ。

  白紙の紙の次、2枚目である。

 <THE WAY OF FLYING>

 飛ぶ方法だ。

 キーボードを叩く。

 モニターの英文はみるみる日本語に変わってゆく。

 辞書を引く。

 キーボードを叩く。

 ワインを飲み干し、また、キーボードを叩く。

 顔が上気しているのが、自分で分かる。

 花江はバスローブを脱ぎベッドに投げた。

  「おもしろいわ」

 窓を開け放つ。

 外の空気がすうっと入り込んでくる。

 その空気を両手ですくいとり、頭上に振りまいた。

 見えない空気は、きらきらときらめいて花江の裸身を包んだ。

  「おもしろいわ」

 もう一度言った。

 「美幸ちゃん、なによこれ」

 今日の花江はいつもの花江であったが、何かが違っていた。

  「どこか、間違えてましたでしょうか」

 「どこかじゃないわよ。全部書き直しね。これはトラブルの抗議状でしょう?こんなんじゃ、こっちが悪いみたいじゃないよ」

 「すみません。もう一度本を見ながら書き直します」

 「いいわ、あたしがやってあげるから、そこに置いといてちょうだい」

 言うことはいつものようにきついのだが、顔が笑っているのだ。

 化粧のせいだろうか。

 心のせいだろうか。

 花江自信も感じていた。

 今日は何かが違う。

 そう、あの本を読んでしまったからだ。

 うふふ。

 おもわず、一人笑いが唇からこぼれる。

 ばっかみたい、と思う。

 うそに決まってるじゃない、と思う。

 でも素敵よね。本当に飛べたら。

 「素敵よね」

 「はっ?何がですか?」

 「あっ、なんでもない。松田君、これ出来たから、課長にはんこう貰ったら、また持ってきてね」

 「はっ、はい」

 周囲の戸惑いをよそに、就業のメロディーが流れるまで、いつもの花江はいつもの花江ではなかった。

  花江は帰り支度を済ませると、珍しくレストルームで化粧を直した。

 鼻歌まじりだ。

 三日連続の定時退社など、花江にとっては入社以来初めてのことである。

 プランは出来ていた。

 明日は土曜で休みだから、今日の帰りがけと明日とで必要な物を買い揃える。

 明日の夜咲子に電話をして、日曜日に約束を取り付ける。

 そして日曜の夜中、マンションのベランダから、咲子の見てる前で、飛ぶ。

 本当に飛べるなどと思っているわけではない。

 しかしそれに至るプロセスこそが、今の花江には重要なのであった。

  オフィスは五階だ。

 四つあるエレベーターは、何れも10階以上にいる。

  花江は待ちきれずに階段を駆け降りた。

  会社帰りの人でごった返すエントランスを足早にすり抜け、まだ明るい外に踊り出た花江は、ふと一つの視線を感じた。

 社屋の脇に植えられている桜の木のあたりだ。

 春には見事な花を咲かせた木であるが、今は鬱蒼とした葉桜だ。

 その影からすらりと涼しげな背広姿が、花江に向かって歩いてくる。

 来た。

 と花江は思った。

 暫く前から幾度となく視線が合っていた男性である。

  「園田さん、ですよね」

 「は、はい」

 「ぼく、商務課の橘です」

 花江は知っていた。

 大きい会社なので、部が違うとほとんど顔を合わせる機会がない。

  ましてや、他の部の人間の名前など知らなくても、仕事になんら支障はきたさないのだ。

  では、なんで花江が知っていたかというと、気になる人間の名前を調べる手段を花江が知っていたからである。

 「突然ですみません。他に方法がなかったもので。待ち伏せみたいになっちゃいましたね」

 橘は笑いながら頭を掻いた。

 精悍な顔つきの中に、少し幼さの残る表情は花江の好みにぴったりだ。

 「あの、なにか?」

 と、聞きはしたものの、花江には橘の用向きが分かっていた。

 誘いであろう。食事でも、と。

 「実はちょっとお話しがあって。よろしければこれからお食事でもいかがでしょうか」

 やはりそうだった。

 「いえ、わたし、これからやらなければならないことがありまして」

  「お約束ですか」

 「いいえ、そんなんじゃないんですけれど」

 「じゃあいいじゃありませんか、一時間くらい」

 いつかはこうなるであろうと思っていた。

 こうなってもよいという確認は、お互いの視線によって出来ていたのだから。

  結局押し切られたかたちで、有楽町で食事をすることになった。

  橘はタクシーに乗り込むと、運転手に遅滞なく目的の場所を告げた。

 計画通りなのであろう。

 セイモアという名のレストランであった。

 「とりあえずビール、でいいですか?」

 「あの、あたし」

 「飲めるんでしょう?けっこう」

 「いえ、あの」

 「とりあえずビール下さい」

 店内は明るかった。

 テーブルには、赤いカーネーションが一輪生けてある。

 雰囲気は高級そうだが、メニューはリーズナブルであった。

 花江の好みに合っている。

 「いい店でしょう。まだ時間が早いからすいてるけど、8時過ぎると思いっきり混むんですよ、ここ」

 「あの、わたしやっぱり帰ります」

 「え?そんなこと言わないでください。僕もこうやってあなたを誘うまでには随分悩んだんです。いま帰られちゃったら、次はありません」

 「でも、今日は本当にしなくちゃいけないことがあるんです」

 「だからほんの少し。店が混んでくるまでにはお帰しします」

  いい男であった。

 年は三二歳。

 やさしくて、真面目で、背もすらっと高く、なぜこのような男が独身なのか花江には分からなかった。

 きっちり八時に店を出た。

 後の誘いがなかった代わりに、次の約束をした。

 花江は自分の九九パーセントを隠していた。

 橘も同じであろうと思った。

 少し付き合ってみないとお互いは分からない。

 花江は、送りますという橘を次のデートで送ってくださいと断り、マンションに帰った。

 帰り道に買い物をするなどということは、すっかり頭から消えていた。

  部屋の電気を付け、スーツを着たまま、バッグも持ったままベッドにごろりと仰向けになった。

 ゆっくりと目を閉じる。

 なにもこんなに早く帰ってこなくてもよかったんだわ、と思う。

 でも始めはこのくらいが丁度いい、とも思う。

 花江は、はっと目を開けた。

 ベッドから降り、机に向かう。

 開きっぱなしの皮表紙の本を両手に取り、ぱたりと閉じた。

  「もう一回翔んでみるか」

 花江は、その古ぼけた本をそっと引出の奥にしまった。

 「今度はだいじょうぶそうじゃない」

 「まあね」

 咲子の家である。

 旦那が出かけているというので、例によってエアロビクスの帰りに飲みによったのだ。

 花江も咲子も、片手にビール、片手にバスタオルである。

  「ねえ、花江・・・・」

 「ん?」

 「ねえ」

 「なによ」 

 「ねえねえねえ」

 「だから、なによ」

  「もう、いったんでしょ?」

  「なにが」

 「なにがじゃないわよ。彼と、なに」

 「なにってなによ」

 「とぼけんじゃないわよ」

 「なんにもあるわけないでしょ。まだ付き合って一ヶ月よ」

 「うそつけ」

 「ばれたか」

 「ねえねえ、どうだった、彼」

 「んー、まあまあってとこね。あっ・・・なに言わせんのよ、すけべ」

 「でも、ほんとに彼女いないのかしらねえ、彼」

 「そうなのよね。ルックスだっていいし、背も高いし、優しいし、センスもいいし、不思議よねえ」

  「すっかりのめりこんじゃってるわけね、花江は」

 「今度の日曜日、彼の家に行くの。はじめてなのよね」

 「へー。両親に合うの?」

 「彼一人暮らしなのよ」

 「じゃあ、部屋とか掃除してあげちゃったりなんかするんだ」

 「まあね」

 「でもさあ、行ったら女もんの靴とか置いてあったりしてさあ」

 「あるわけないじゃない。彼、社内でも評判の堅物なのよ」

 「わからないよ。社内では堅物でも、ひとたび夜の銀座に出れば無類の軟派師、なんてね」

 「ばかみたい」

 「日曜日さ、ちょっと時間早めに行ってみたら?思わぬ場面に出くわすかもよ」

 「くだらないこといわないでよ」

 「そういえばさあ、前に持っていった本、どうだった?」

 「あっ、ごめん。今度返す」

 「いいんだけどさ。あれ、旦那に聞いたんだけど、やっぱり心当たりないって言うのよね。うちの本じゃないみたい」

 「ふーん」

 「どんな本だった?」

  花江はビールの栓を抜いた。3本目だ。

 花江があの本を読んだのは1ヶ月前である。

 思えば、あの本を読んだ次の日に、彼と知り合ったのだ。

 読んだといっても少しだけで、咲子に説明できる程のものはない。

 「なんか面白そうな本みたいだったけど、まだあまり読んでないのよ、実は」

  「なあんだ、じゃあ返してよ。なんかすごく興味沸いてきちゃったのよね、あの本に。どこから紛れ込んだか知らないけども、ミステリアスじゃない、とっても」

 「そう言われると気になるわねえ。やっぱ、返すのやめた」

 「ずるーい」

 花江の胸には、あの本を読んだときの、わくわくした気持ちが蘇っていた。

 そうだ、彼に教えてあげよう。今度の日曜日、彼の家で。

 その朝、花江は五時に起きた。

 部屋の掃除をしてからシャワーに入り、軽く朝食を取った。

 日曜日に朝食を食べるのは、久しぶりだ。

 たいていは、昼食と一緒になってしまう。

  花江は、少しは緊張してるのか、と自分に驚いた。

  彼の家へは、三時に行くことになっている。

  まだ、時間はたっぷりある。

  橘は、映画でも観た後に家で食事でもしようか、と誘ったのだが、花江が映画を断ったのだ。

  花江には、深い理由はなかったのだが、映画より橘の家へ行くことの方をメインに考えたかったので、ついひねくれて、映画なんか観たくないと言ってしまったのだ。

 花江は、いつもより時間をかけて化粧をした。

  シャドーはいつもより濃く。しかし濃すぎないように。

 頬紅はほんの少しだけ。付けているのが分からないくらいに。

 ルージュは、気に入って買ったのだが、もったいなくて一度も使ったことのないピンクを筆で引いた。

 前髪のおさまりが悪くて、何度もブローをし直した。

 時間は早いが、買い物もあるので、早く出ることにした。

  外は、よく晴れていた。

  つくつくほうしは、全滅寸前といったところだがまだまだ暑い。

 白のフレンチスリーブのワンピースは、花江の大のお気に入りである。

 三時に橘が駅まで迎えに来る予定なのだが、花江は、時間も早いので、直接橘の家を訪ねることにした。

  場所は、だいたい地図で調べてある。

  買い物をしながら、ぶらぶらと歩いた。

  今は知らないこの町が、いつかはあたしの町になるかも知れない。

 大きなマンションであった。

 七階建の七階に、橘の部屋がある。

 今はまだ一時だから、すれ違う可能性はない。

 花江は、インターホンのボタンを押した。

  「はい」

 「あたし」

 「ん?」

 「はなえ」

 「あっ、ちょっと待って」

 すぐにドアがあいた。

 橘はタンパンにランニングだ。

 「何だ、随分早いじゃない。電話くれれば迎えに行ったのに」

 「ごめん」

 「さっ、どうぞどうぞ、おあがりください」

 「失礼しまーす」

 マンション特有の小さな玄関に、女物の靴は置いていなかった。

  花江は、自分の靴と、脱ぎっぱなしの橘の靴やサンダルを丁寧に揃えると中に入った。

 部屋にはクーラーが効いていた。

 男の一人暮らしにしては、よく片付けられていた。

 「いま、ちょうど片付けてたんだよ」

  「へー。随分きれいじゃない。もっと散らかってると思った」

 「大事なお客さんだからね。きれいにしておかなくっちゃ」

  花江はベランダのある窓を開けた。

  「わー、七階ってやっぱり高いわね」

  「でも風が強くて、開けっ放しにしてられないんだ」

 「いいじゃない気持ちがよくて。クーラー切って開けときましょうよ」

  「いいけど・・・」

 花江はキッチンに向かった。

 あらかじめ用意してきたエプロンを付けて、料理にとりかかる。

 「お昼、まだなんでしょ?」

  「お客さんにそんなことさせたら悪いなあ」

 「いいのよ。そのつもりで来たんだから」

 花江は、橘に鍋や皿を聞きながら、あっという間に二品ほど作ってしまった。

 「へー、上手だね。すごくおいしいよ、これ」

 「花江風野菜炒め。結構いけるでしょう。夕食はもっと凄いやつ作っちゃうからね」

 「あっ、あのさあ、実は今日の夜、ちょっと用事ができちゃって・・・」

 「えっ、用事って?」

 橘も花江も箸を置いた。

  「いや、大した用じゃないんだけど。十時には出かけなきゃならないんだ。ごめん、九時に車で送っていくよ」

 「いいわ、わかった。でも夕食くらいいいでしょ?」

 「もちろんだよ」

 花江は、泊る用意をして来ていた。

 少しショックだった。

  でも、しかたがない。何も、今日だけしかここに来れないわけじゃない。

  「ビールでも飲むかい」

 「アルコールはだめなの」

 「いつも結構飲むじゃない。体調悪いの?」

  体調は万全だ。なおかつ安全日でもある。

  花江は、そのつもりで今日という日を指定したのだ。

  「体はいたって健康そのもの」

 花江は胸を叩いた。

 「今日はねえ、ちょっとした趣向があるの。だからそれまでお酒は飲めないのよ。」 

 「なんだい?その趣向って」

 「ないしょ。本当は真夜中にやりたかったんだけどな。でも九時には帰らなくちゃいけないし」

 「ごめんごめん。この埋め合わせは絶対にするからさ」

  花江にとって、二人の時間は、かけがえのないものであった。

  それだけに時間のたつのは早く、あっという間に日が落ちた。

 何処へも行かず、何もせず、ただ向き合って話しているだけだった。

 そんなことが楽しい恋なんて、学生時代以来であった。

  「いいのよ、飲んでも」

 「いいよ、送らなきゃいけないし」

 「電車で帰るから」

 「いいから。それよりかさ、そろそろいいだろ、趣向ってやつ。」

  「そうね」

 花江は立ち上がり、窓から外を見た。

  星空だ。

 「よく晴れてるわ。星がたくさん見える」

 花江は橘の方へ振り返った。

  「ねえ、もし自分一人で空を飛べたらって、想ったことない?」

 橘は、花江の側に行き、肩にそっと手をかけた。

 「そうだなあ、小さな頃に想ったことがあったかもしれない」

 「やっぱり変かなあ、いい歳してこんなこと言うの」

 「そんなことないさ」

 「あたし、小さな頃から夢ばかり追ってたの。でも夢が叶ったことなんて一度もない。恋をするのも夢。幸せな結婚をするのも夢」

 「一つ叶ったじゃないか、君の夢」

 橘は花江をそっと抱いた。

 「ありがとう」

 花江は橘の胸の中で目を閉じた。

 今までいくつの恋をしたろうか。

 しかし、こんなに素直な気持ちになれたのは初めてだ。

  ずっと肩肘を張って生きてきた。

 でも、もう大丈夫。

 優しくなれそうな気がする。

 花江は、橘の目を見上げて、微笑んだ。

 「飛んでみようかと思うの」

 花江は、橘の胸からゆっくりと離れた。

  「飛ぶって?」

 「笑わないでね。本気なんだから」

 「だから何を」

 「友達から借りた本に、空を飛ぶ方法が書いてあったの」

 「ハハハ、面白そうだね」

 「ほおら、笑った。もう」

 「ごめんごめん。もう笑わないよ。それでどうするんだい?」

 「これなの」

 花江は、バッグから小さな袋を取り出し、中身を掌に取った。

  「なんだい、それ」

 それは、1センチほどの小さな二つの粒であった。

  一つは星型で銀色に輝き、もう一つは涙型でブルーに透き通っていた。

  「あたしもはじめは半信半疑だったんだけど、本に書いてあるとおりにやったらこんなのが出来ちゃったの。これって、土と水と木だけで出来てるのよ」

 「まるで錬金術だね」

 橘は、不思議そうに、その二つの粒を見た。

  花江は右手に涙の粒を握り、左手で星を無造作に口に放りこんだ。

  「おい、大丈夫なのか?」

 「わからない。でも、本に書いてあるとおりだとすると、あと10分もすれば効果が出てくるはずなの。恥ずかしいから向こう向いてて」

 「なぜだい」

 「いいから、早く」

 橘は、理由もわからず、促されるままに後ろを向いた。

 時折、窓から優しい風が入ってきて、レースのカーテンを揺らした。

  カーテンの揺れるわずかな音に混ざって、衣擦れの音がする。

 「いいわよ」

 橘は、ゆっくりと振り向いた。

 「きっ、綺麗だ」

 花江は、後ろを向いていた。

  その足元には、身に付けていた全ての物が落ちていた。

  花江は、胸を両手で隠すようにして、橘の方を向いた。

  その全身は、美しい桜色に染まっていた。

  「綺麗だ。でも・・・」

 「心配しないで。本に書いてあるとおりになってるだけだから。もう少しすると今度は、身体中銀色に光ってくるはずなの。そうなったときに、始めてあたしの身体が対流圏の空気の比重より軽くなるの。それで飛べるわけ。どんどん上昇して対流圏と成層圏の圏界面迄行くと止まるの。地上約一万メートルよ。降りてきたらどんな気持ちか教えてあげる」

 橘は目のやり場に困り、視線をややそむけた。

  「降りて来るのはどうするんだい?」

 まだ、半信半疑の聞き方ではあるが、揶揄する響きはない。

  「涙の粒を飲むと、昇った時と同じ早さで降りられるの。身体も元に戻るみたい」 花江の全身が、きらきらと輝きだした。

  と、その時、ガチャガチャと玄関の鍵を開ける音がし、人の入ってくる気配があった。

  瞬間、二人の間に緊張が走った。

 居間の扉が勢いよく開いた。

  「居たんじゃない。あっ・・・」

 女性であった。

 赤いタンクトップにタイトスカート、ソバージュを後ろで結んでいる。

  もちろん花江は知らない。

  花江は、小さく叫んでしゃがみ込んだ。

  「百合・・・おまえ、なんで・・・」

 橘は茫然と立ち尽くした。

  「なによこの女。何で裸なのよ」

 いいざま、百合と呼ばれた女は花江に駆け寄った。

  「なんなのよあんた」

 百合は、花江の肩を押した。

  すると、その勢いで、花江の身体は羽毛のようにすうっと窓から外に出、ベランダの手すりを越えた。

  「あっ!」

 橘は、慌ててベランダに出た。

  地上七階。

  落ちれば確実に死ぬ。

  「花江さん!」

  叫んだ橘は、信じられない光景を目にした。

  古(いにしえ)の本の魔力か。

  花江の身体は、ベランダの先5メートルほどの空中に、ふわふわと浮いているではないか。

  「橘さん・・・」

  「花江さん」

  花江の身体はいつの間にか、髪の毛一本に至るまで銀色に輝いていた。

  「花江さん、違うんだ。こいつはそんなんじゃないんだ」

 「いいの。何も言わないで」

 「聞いてくれ。こいつとは随分前に別れたんだ。どうしても大事な話しがあるっていうから。急用だっていうから、今夜逢うことになっただけなんだ。合鍵を持っているなんて全然知らなかったんだ。信じてくれ」

 百合は、窓際で茫然と、宙に浮いている花江を見ている。

  花江は静かに微笑みながら言った。

 「いいの、なんでも。わたしの夢、一つだけ叶ったから。夢は一つだけ叶えばいいの」

  花江の全身の輝きが増した。

  花江は大きく両手を広げ、星空を見上げた。

  「素敵・・・」

  花江の身体は、ゆっくりと上昇を始めた。

  「花江さん!」

  橘は花江の名を呼んだが、花江には聞こえないようであった。

  花江の目から銀色の涙がこぼれ、ほろほろと玉となって上昇していった。

  橘は、何度も何度も花江を呼んだ。

  花江の輝く身体は、星の中に紛れて見えなくなった。

  橘の呼び声も、その星の群れの中に吸い込まれていくようであった。

  数分後、花江の消えた空の彼方から、悲しみの涙の粒が一粒落ちて来て、冷たいアスファルトの上で砕け散ったのを知る人は、いなかった。

                                                                                                    おしまい

1992年6月12日